カントの『道徳形而上学原論』について

カントの『道徳形而上学原論』を読んでの感想の続きです。

「形而上学」というのは、人間を抽象的な存在として捉えて

考える学問です。

あえていえば、人間を、実験用マウスみたいな存在と捉えて

人間にとっての生死の意味や道徳や幸福について考える学問です。

カントは、道徳の形而上学が当てはまる人間を

『理性的存在者』として、考えています。

要するに「理性」のある人間です。

 

では「理性」とは何か?

 

 

冗談で言われるのは、

ふたりきりで女性と一緒に同じ部屋にいても、

押し倒さない男性のことを「理性的」というらしいです。

 

 

しかしながら、

我々の生きている社会は、実際には汚いし、人間も、汚いです。

女性を押し倒す男性もたくさんいるでしょう。

 

 

その現実的な汚さを、認めた上で、道徳を考えると

全部の話がうそ臭くなります。

 

「現実には道徳なんか役に立たない」

 

という本音が出てしまって、道徳を考えることが

むなしくなってしまいます。

 

 

なので、カントは、現実的な汚さというものを排除して

理性的な存在者というのがいると仮定して哲学します。

 

 

そうやって、理性的な人間だらけがいる世界を仮定して

道徳について考えるのが『道徳形而上学』です。

 

 

でも、現実社会は、殺人事件のTV報道の後ろで、ピースする人や、

無差別殺人があっても現場で笑いながら、

血だらけで倒れているような被害者をスマホで撮影するような人が

悲しいですがたくさんいます。

 

 

こういう人は、カントのいう「理性的存在者」ではないわけです。

 

 

そういう非道徳的な人がいるのが

我々が生きている社会のまぎれもない悲しい現実ですが、

その非道徳的な人たちを組み込んで、世界を考えて

道徳を語ると、どんどんうそ臭くなります。

 

 

カントは、そういう非道徳な人は「理性的存在者」ではないので

哲学の対象外にします。それが「道徳形而上学」なのです。

さらに、カントは、経験として導き出される道徳だけ語っても、

道徳については、本当には、わからないと考えています。

 

 

理性的存在者である人間の心には

「人を助けるべきだ」「戦争は放棄すべきだ」

という「~すべきだ」という形で、

今まで生きてきて経験的に導き出されたり

誰かに教えられて、身につけたのではないような

道徳の法則があるとカントは言います。

 

 

それをカントは、「格律(マキシム)」と名づけています。

 

その「格律」が、理性的存在者の普遍的な道徳法則になる場合、

「定言的命法」と名づけています。

 

 

その「格律」や「定言的命法」には

道徳的な価値があると、カントは言っています。

もちろん、理性的な存在者ではない人たちには

「格律」も「定言的命法」もありません。

 

 

一部の理性的存在者を前提とした哲学が、

単なる理想論でしかないという批判は、

もっともですが、

汚れきった社会の現実だけに振り回されて生きるのも、

これは、明らかに苦しいです。

僕は自分が理性的な存在者だとは思いませんし、

非道徳な部分がある人間だと自覚していますが、

ただただ現実に妥協して生きていくのが

はたして満足のいく生き方なのかどうかは

考えることがあります。

 

 

憲法9条の話も交えて話しました。

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