カントの『道徳形而上学原論』について 続篇

カントの『道徳形而上学原論』についての話の続篇です。

カントは『理性的存在者は目的として存在する』といいます。

これはどういうことかというと、

理性的存在者である人間は、「~すべし」という

心にもともとある「格律(マキシム)」に従って生きているので

目的として存在するのです。

 

「人を愛すべし」

「人にやさしくすべし」

「正直・誠実であるべし」

 

などなどいろいろあるでしょうが、

このような「格律(マキシム)」があって、

それが、理性的存在者の皆さんに

普遍的に通用する「格律(マキシム)」であれば

道徳的価値を認めてもらえます。

 

 

でも、「~すべし」という「格律(マキシム)」がない人もいます。

その代わり「~したい」という欲求はあるかもしれません。

 

「金持ちになりたい」

「異性にチヤホヤされたい」

「美味しいものが食べたい」

「外車の乗りたい、ブランドバッグをほしい」

などなど

 

こういう「~したい」という欲求が、

行動原理になっている場合がほとんどです。

 

かくいう私もそうです。

でも、「お金がほしい」という欲求があっても

100万円入っている財布を拾っても交番に届ける人はいます。

 

それは、「お金がほしい」という欲求より

「財布を拾ったら持ち主に返すべし」という「格律(マキシム)」のほうが

強く働く人がいるということです。

 

 

100万円拾ったのに交番に届けるなんてバカだなあと

思う方が多いような気もしますが、

自らの「格律(マキシム)」を優先して

正直者は馬鹿を見るを地で行くような

誠実な人がいるのもこの世の事実です。

 

 

まあ、拾得物を届けるという誠実さは、

日本人には、わりと普遍的な「格律(マキシム)」かもしれません。

外国人から見ると、アメージング! みたいです。

 

 

カントは、100万円を律儀に交番に届けるような理性的存在者は、

自らの心に浮かんでくる定言的命法であるところの

「拾得物は持ち主に返すべし」という「格律(マキシム)」を

実践して生きているから「目的として存在する」といっています。

 

 

『理性的存在者は目的として存在する』

とは、「~すべし」というこころの命令に従って生きる生き方なのです。

でも現実社会では、人間は、「目的」ではなく「手段」として存在していると

思わされるケースがほとんどです。

 

企業は従業員を手段とみなしています。

 

だから、サラリーマンは自分の中の道徳的価値と

会社の求める職務命令の間で板挟みになって、煩悶します。

 

30歳すぎたサラリーマンは、

会社と部下の板挟みなどばっかりでしょう。

部下に無茶な命令を出して潰すこともあるし、

自分が上司に無茶な要求をつきつけられ、反抗できないことだらけです。
それをやり過ごして、現実に妥協しまくって

麻痺していくと、理性の働きは失われ、

自分の心に浮かんだ「格律(マキシム)」は、

現実と合わないために、苦しみの原因となります。

 
どんどん、道徳的な感情がなくなっていくとおもいます。
そして、その果てに、病気になったり、死にたくなったりする人もいるでしょう。

 

 

ただ、それは、サラリーマンだけのケースではありません。

 

 

例えば、就活自殺する大学生がいます。

就職に失敗して自殺する大学生というのは、

「大企業に就職したい」

「一生安泰に暮らしたい」

「リスクを獲らずいい給料を貰いたい」

こういう欲求の挫折によって自殺に追い込まれたといえるし

あるいは、親や親族が「大企業に就職しなければいけない」とか

暗黙のプレッシャーをかけたことで、追い込まれて自殺したのかもしれません。

 

 

理由は個別にあると思いますが、

就活に失敗して自殺するだけでなく、

自殺する人は、

「人間存在を『手段』としてみなしている」

というのがカントの見解です。

 

 

人間存在を手段としてみなすというのは

心の中に「~すべし」という「格律(マキシム)」がない状況です。

自分に生き方を命令するような、「このように生きるべし」という心の命令がないのです。

 

そうなると、「こんな人生だったらいっそのこと死にたい」

こういう欲求が生まれます。

 
念のため考えて欲しいのですが、

「自殺すべし」という、「格律(マキシム)」はあるのでしょうか?

 

理性的存在者としての人間の「格律(マキシム)」に

「自殺すべし」というものがあったら、

それは、道徳的価値を持つ普遍的な「格律(マキシム)」になりうるのでしょうか?
確かに、ソクラテスが毒杯をあおるような形で

正義を身を持って示すために自殺することはは、あるかもしれません。

「人は正しく生きるべし」ということを死を持って証明する。

こういうケースもないわけではありません。
こういうケースでは、目的として存在するために自殺したといえます。

だから、道徳的価値があると認められると思います。
道徳的価値があると認められるというのは、

「ああ、ああいう死に方をしたソクラテスは偉い人物であった」

と、多くの人が感じるということです。

 

しかし、欲求の挫折として自殺するケースは、誰からも尊敬されません。

だから、「自殺すべし」という「格律(マキシム)」に

道徳的価値がありません。
理性的存在者は自殺を目的とする存在にはなりえません。

「苦しんでいたのか、気の毒に」という同情の念はあるとしても、

「なんとか、耐えて生き抜いて欲しかった」というのが残された遺族の感情でしょう。

 

 

自殺するのは、

結局は、人間を「手段」としてしかみていない

ところから生まれる行為です。

 

 

死体に鞭打つわけではありませんが、

安易に自殺に誘惑されるという人は、

人間存在を手段としてしかみていない可能性があります。

 

 

200社以上受けても就職試験に受からず、

世をはかなんで、死を選ぶ。

 

 

そこにあるの自殺の要因は、

手段として就職してサラリーマンになる人間としての自分以外に、想像力が及ばず、

面接や採用試験を通して、手段として試され拒否され続けた

そのことへの挫折でしかないです。

 

 

「目的としての存在である人間」の可能性を見ようとしなかったということです。

 

「生きるべし」という「格律(マキシム)」がなかったということです。

 

道徳の欠如が、安易な自殺につながります。

 

 

それは自殺者本人が、自分自身を手段としてしか自覚していなかったせいでもありますし、

家族や友人、職場の人間が、その自殺者を「手段」としてしか見ていなかったため

追い詰めたというのが本当のところです。

 

 

そこには、道徳の欠如があったのです。

 

 

ついに目的としての存在である人間について

本人も、周囲の人も、考えるに及ばなかったからです。

 

 

彼らには、他人を助けようとして川に飛び込んで、自分が死んでしまう人の

心のなかの「格律(マキシム)」の

道徳的価値が一生わからないのです。

 

 

これが道徳の欠如です。

 

 

100万円拾って、持ち主を探すそうとする

「格律(マキシム)」の道徳的価値もわからないのです。

 

 

そういった「格律(マキシム)」の道徳的価値が

永遠に理解できないから、

人間は、愚かにも、安易な自殺の誘惑に駆られるのです。

 

 

手段としての自分に押しつぶされるのです。

「~したい」という欲求を満たすレベルで生きている限り、

人間は、道徳的価値について真剣に考えることはありません。

 

 

こういう人間は、カントのいう理性的存在者からほど遠いです。

欲求のみに生きる人は、

人間を「手段」として利用することに、心理的抵抗を感じないでしょう。

彼らは、自分自身も、「手段」としてみなして生きるわけです。

 

「手段」として生きるから、いつまでも欲求に振り回されます。

お金や権力や名誉に振り回されて生きつづけるのです。

そんな人みていて「むなしいやつだ」と思う人もいるんです。

 

そういう人は、己の「格律(マキシム)」に従って生きている人です。

 

 

ただ、「こういう生き方はむなしくないですか?」みたいな

説教臭いことを、私は言いたいわけではないのです。

 

(言いたい気もしますが。私もも欲求側の人間で

人間を手段としてみている自覚があるので、あまり偉そうにいえません。)

 

「手段」として自分自身をみて、「手段」として他人をみる。

そういう生き方は、

これはこれで、

しんどいです。

 

他人を「手段」としてみて利用するような人間関係。

 

自分の欲求・欲望を通してしか、他人をみることができない人間。

 

これが当たり前だと思って生きている人が多いような気がします。

 

 

そういう職場や、学校、人間関係にうんざりしてませんか?

誰かを利用し、誰かに利用される。

 

だまし、だまされあうのが日常。

 

考えただけでうんざりです。

 

そんな社会は息苦しいです。

利害関係を果てしなく調整するような人間関係しかないんです。

 

 

職場や学校だけでなく、家庭までもが、こんな状況ではないか考えてみてください。

 

 

「お父さんは給料をもって返ってくる人」

「お母さんは、ご飯を作って掃除する人」

「子供は、老後の面倒を見てくれる人」

「子供は、ペットみたいな癒しの愛玩物」

 

家族ですらも「手段」としてしか見ることができない。

こんな人たくさんいるんです。

 
人間を「手段」としてみる人の生き方は

道徳的価値と無縁であるゆえに、

たとえ、本人の欲求が満たされたとしても、

憧れられたり嫉妬されこそすれ

心からは、尊敬されない、

しょうもない生き方だ

 

ともいえます。

 

「しょうもない生き方だ」と思わない方は、

そのまま突き進んでいただけばいいのですが、

「しょうもない」と思ってしまう方。

 

そういう方は、何らか心に「格律(マキシム)」がある方です。

 

 

それは「人の役に立つべし」「人を救うべし」

 

そういう定言的命法が、頭からはなれない人。

札束を拾っても、警察に届けてしまうような誠実な人。

誰も見ていないところでも、勇気を発揮してしまう人。

捨て猫を拾って育てようかと思い悩むやさしい人。

川で溺れている人を助けようとして飛び込むべきか悩む人。

正直にものをいって人から疎まれる人。

 

こういう部分が少なからずあるのが人間です。

 

それは、理性的存在者としての部分です。

 

 

こういう「~すべし」という「格律(マキシム)」の強い人間は、

「正直者は馬鹿を見る」という感じで

あまり陽の目をあびて生きられません。

 

残念ながら。

 

 

非常に残念です。

 

 

実際にいたとしたら、

やさしいだけのダメおやじであることが多いでしょう。

 

 

利害関係で生きていないですから、損することが多いはずです。

 

だいたい、正直といいのは厄介で、

「正直であるべし」という「格言(マキシム)」になるわりには、

「正直になりたい」という欲求にはなりにくいのです。
しかし、「誠実を装ってだます」という事実があるように

正直や誠実には、道徳的な価値があります。

 

こういう「格律(マキシム)」が

道徳的価値を持っていると理解している人は、

「理性的存在者は目的として存在する」という

カントの考え方に当てはまる人です。

 

その人は「目的」として存在しているの理性的存在者なのです。

道徳的価値がわかる人なのです。

 

 

だから、自分の「格律(マキシム)」に従ってした行為によって

報いを受けることがなくても、

あるいは最悪のケース、川に溺れた人を助けようとして

命を落としたとしても、

その人の「格律(マキシム)」には、道徳的価値があったのです。

 

 

そういう道徳的価値のある「格律(マキシム)」が

国際連合憲章のような世界平和の理念には入っています。

日本の憲法第九条にも入っているかもしれません。

 

 

道徳は、ときに非現実的ですが、だからこそ価値を持つのです。

 

 

道徳的価値が生まれるのは

人間という存在を、「手段」としてではなく、「目的」としてとらえたときです。

 

 

みなさんは、自分が目的として存在しているのを感じることがあるでしょうか?

 

 

心の中の「~すべし」という「格律(マキシム)」を

思い浮かべてみてください。

 

(だいぶ説教臭いですね。すみません。)

 

 

でも、なぜこんなこと書いたかというと、

「幸せになりたい」「強運になりたい」と思う人ほど、

まずは、自分の「格律(マキシム)」を大切にして欲しいのです。

 

 

「人を助けるべし」「人にやさしくすべし」

「人を愛すべし」「人を許すべし」「正直・誠実であるべし」

 

こういう「~すべし」がない人は、

誰からも尊敬されないから、

幸せになっても運勢が良くなっても

結局、むなしいと思うのです。

 

 

幸せや強運を求めて、そこからどんどん遠ざかる人がいます。

 

 

なぜか求めるたびに遠ざかるのです。

 

 

そういう人は、自分も他人も手段としてしか見ていません。

 

 

仮に、そういう人が、いくばくかの幸せや好運に恵まれても、

満たされることはありません。

 

 

むなしさ募るのです。

 

 

そのむなしさを、もっと幸せになることや

もっと運勢が良くなることで乗り越えられるというと

それは無理です。

 

 

カントは、「目的の国」があるといいます。
「格律(マキシム)」に従って生きる理性的存在者の共同体です。

 

その国には、普遍的な道徳的価値が理想的に存在しています。
そこでは、道徳的価値を実現する人は、深い尊敬を受けます。

 

その『目的の国』から排除されている理性的存在者ではない人間には、

幸せ、そして強運もありません。

 

つまりは、道徳がお留守になっている人は、

幸せにも強運にもなれないということです。

 

 

こういうことを私は思うようになりました。

(やたら、説教臭くてすみません。でもそう思いますよ。)

 

 

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