コラム 『読書は思索の代用品にすぎない』 

『読書は思索の代用品にすぎない』 

ショウペンハウアーは、読書を『読書は思索の代用品にすぎない』と喝破した。(『読書について』岩波文庫)

大学に文学全集を読み尽くした博識の先輩がいた。彼は、教養を愛し、文学を素朴に信じていた。しかし、私は思う。文学書を読むのは、『何が善で何が悪か?』という倫理的な問題を学ぶためだ。私は、彼を軽蔑していた。警察官を好きなのは日本人の特徴だが、時代劇を見ても、お上は常に正しく、庶民の味方だという倫理観が、日本社会には根強くある。そんなわけないと、反論したくなるだろうが、なぜ、水戸黄門の印籠が偉いのかとか、なぜ、暴れん坊将軍が、悪を成敗するのに爽快さをおぼえるかというのは、これは日本人の倫理観の表現なのである。今だって、お上には逆らわないというメンタリティーの人は多い。(実は私もそうなのだが・・・)しかし、お上が常に正しいわけではない。大人は、何が正しいのかは、自分で判断しなければいけない。「この人と付き合っていいのか?」「拾った1万円は交番に届けたほうがいいのか?」こんな問題から「離婚調停」「投資は自己責任」などまで、判断が求められることはたくさんある。何が正しいかを思索して、生き抜く上での判断基準に反映させていくことがなければ、他人の思想の奴隷になってしまう。最近、LGBTの権利について公に語られるようになった。当事者以外にとっては、同性愛者の権利は、理解が難しい。いくら参考文献を読んでも、当事者の「生きづらさ」は、体験してみなければ、わからない。例えば、トイレの問題。実際に、女装をして街を歩いて、男性トイレに入ってみればわかることもある。その立場になれば、死にたくなるような偏見や差別を感じ、途方に暮れるだろう。体験しなければ判断がつかないこともある。有識者の意見に、自分の判断を突き合わせなければ「何が正しいか?」は、わからない。

『第一級の精神にふさわしい特徴は、
    その判断がすべて他人の世話にならず直接自分が下したものであるということである』
                                   ショウペンハウアー

コメントを残す