コラム 『ラザロの復活』

新約聖書の『ヨハネの福音書』の第12章には、イエスが、

ラザロという男を、墓から甦らせたという奇蹟が描かれている。

ラザロは、イエスの友人だった。

なぜ、ラザロが生き返ったかというと、

それはイエスが、ラザロの死を『この病は死に至らず』と断言したからだ。

 

「私は、復活であり、生命である。私を信じているものは、死んでも生きる」

イエスは、そう言い切った。

 

ラザロは、友人イエスを信じていたので、生き返ったのである。

哲学者のキルケゴールは、彼の主著『死に至る病』の巻頭で

この『ラザロの復活』に興味深い解釈を加えている。

 

最後の審判で、この世に戻ってきて、

神に裁かれ、「永遠の生命を得る」か「死ぬ」というのがキリスト教の宗教観である。

 

せっかく、ラザロが、墓から甦っても、

再度、死ぬのだとしたら何のために生き返ってきたのか?

 

キルケゴールは、ここでイエスの言った 『死に至る病』を、『絶望』と定義した。

イエスが『この病は死に至らず』と言い切るのは、

『まだラザロは絶望していない』という意味である。

 

絶望的な人間が、この世に生き返ってきたら、本人にとっても周囲にとっても

非常に迷惑である。最後の審判まで、安らかに死んでいてくれたほうがありがたい。

どうせ、神に裁かれて、また死ぬのだから。

 

しかし、ラザロは、友人イエスを信じていた。

イエスのいるこの世界だったら、一緒に生きてみたいと思ったのである。

 

人間イエスと付き合っていると、生きている喜びがあり、ラザロの心は軽くなった。

つまり、イエス本人が、復活であり、生命であるような、大切な友人だった。

 

残念ながら、生命があっても、絶望している人間が、この世にはたくさんいる。

『死に至る病』にかかった人間だ。

私たちは、誰かにとっての復活であり、生命であるだろうか?

 

生命があるのに、希望がないなら、その人は、すでに死んだのも同然だ。

一方、多くの死者の中にも、なお希望がある。

 

この人がいるなら、この世でもう一度生きてみたい。

墓の中でもなお、ラザロの希望は生きていた。

(おわり)

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