コラム 『罪と罰 リザヴェータの福音書』

『リザヴェータの福音書』

 

リザヴェータは、信心深い女だった。

 

お人好しゆえに高利貸しを営む義理の姉に利用され、こきつかわれている。

器量は十人並なのだが、身持ちが悪いという噂がつきまとった。

 

働き者でつつましいが、知恵がないので、周囲に小馬鹿にされている。

いつもびくびくおびえて、いじけて生きているなんの価値もない女に見えた。

 

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雑記

コラム 『罪と罰 神の摂理 リザヴェータ』

「神の摂理 リザヴェータ」

『旧約聖書 創世記 第22章』に「イサクの燔祭」というエピソードがある。

 

それはこういう話だ。

 

敬虔なアブラハムという男が、不妊で苦しむ年老いた妻、サラとの間に

イサクという名の男の子をもうけた。

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雑記

コラム 『罪と罰 プリヘーリア』

「プリヘーリア」

『(お母さんは)よいことだけを当てにしている、そして事の裏側をうすうす感じても、
そうなるまえに自分に本当の言葉を聞かせようとは決してしない。
そんなことは考えただけで気が滅入ってしまうのだ。』

ラスコーリニコフは、母プリへ―リヤの性格の弱さを見抜いていた。

その通り、母は、ルージンに嫁ぐドーニャが不幸になることはうすうす気がついていた。
また、売春婦ソーニャが、息子の大切な人であるといことも認めたくないが、
直感的に気がついていた。

しかし、彼女は、すべてを善意で解釈しようとした。

愛する息子が幸せになるために。

見たい現実しか見ない、信じたいことしか信じないという態度は
激しい社会の変化に耐えるために、彼女があみだした唯一防御手段だった。

一方、息子のラスコーリニコフは世の中が善意で回っていないと
都会の貧困生活で、切実に自覚しはじめた。

誇り高い彼にとって自分の無力さは歯がゆくてやりきれなかった。

『一つの殺人は百の善行で償われる』

非情な社会から、全人類を救済するために彼は独自な思想を造り上げ、
ついには恐るべき凶行に手を染めてしまった。

プリへ―リアは、息子の書いた
『いつか全世界を救う非凡人=英雄が何十億人の中から生まれて、
彼が、全人類を救うために、法律を踏み越えていく権利を持つだろう』

という論文を何度も声に出して読み、誇りに思った。

そして、息子が病気の友人やその家族を献身的に介護したことや
火事場から二人の子どもを救出したことを誰よりも誇りに思った。

自分の息子が、何十億人の一人の非凡人であることを信じていた。

『息子はいつか国家的な人物になるであろう』

しかし、過酷な現実を自分の願いに近づける無理を重ねるたびに
彼女の精神は乱れていった。

ソーニャがシベリアで息子を支えていることも
認めたくはないが、母は知っていたのかもしれない。

だから、息子がどこにいるのか敢えて訊かなかったのだ。

母に残された役割は、息子の帰りをひたすら待つことだけだった。

(終わり)

 

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雑記

コラム 「ここは俺の縄張りだ」

ラーメンや蕎麦、うどんにネギがないととてもさみしい。ネギのかおりというのは、食欲をそそる。しかし、同じネギの香りも、人の口からただよってくれば、不愉快である。飲食と無関係な場所で、ネギの香りを感じることがあれば、それは異臭や刺激臭として扱われる。たとえば、駅の待合室でどこからかぷんとネギの臭いがすれば、イラッとする。でも、その駅の待合室に立ち食いそば屋があれば、ネギの臭いただよっていてもそれほど気にならない。嗅覚というのは、記憶と結びついている。たとえば、私は、頭皮の脂のにおいを嗅ぐと、なんだか落ち着いた気分になる。幼いころ頃、父親のまくら臭いを嗅ぐと、なぜだか安心した。おそらく、当時父親の仕事の帰りが夜遅いので、あまりあう機会がなく、父親のまくらの臭いを嗅ぐと子供心に安心したのかもしれない。なので、いまでも頭皮の脂のツーンとしたにおいには、(いい匂いだとは思わないが、)ケースバイケースで安心感をおぼえる。その人がいるという安心感である。もし堀北真希のつむじから彼女の頭皮の脂の臭いが嗅げるのなら、遠慮なく吸い込みたい。香水やシャンプーの醸すふんわりフェロモンとかどうでもいいので、脂の臭いがツーンとしてほしい。それは興奮するとかではなくて、「ああ、堀北真希が、ここにいるんだ」という実感を味わうために嗅ぎたいのであって、その実感を味わうために、脂の分泌が一番多い頭皮から、嗅ぎたいのである。でも、その臭いが一度しか嗅げないなら、その臭いの記憶はきっとさみしものになる。まるで、その後の一生がネギ抜きラーメンである。また、嫌いな人からいい臭いだという実感は得られない。よく犬は電柱におしっこして、臭いでマーキングする。「ここは俺の縄張りだ」と確認して安心するためだ。誰かの臭いを嗅いで安心するというのは、犬のマーキングに近い。ただ、口からただようネギの臭いから感じるのは、その人がラーメンを食べたという事実だけであって、そこに安心感は乏しい。

(終わり)

雑記

コラム 「トイレと理性」

あるテレビ番組で成功した社長の特集をしていた。

都内で小売店を経営している敏腕社長が、毎朝自宅のトイレを素手で掃除していた。

 

確かに、素手で雑巾を便器の中に入れて、丁寧に磨いていた。

 

素手でトイレ掃除すると成功するという成功法則があり、実践しているのだ。

 

トイレ掃除は、謙虚さを身につけるのに、効果があるという。

 

話は変わるが、ネコというのは、トイレをしつけなくても、

部屋においた砂のトレイに自然とするという。

 

一方、人間の赤ちゃんはトイレを自分でできない。

 

一説によると、赤ちゃんがうんちを排泄するとき感じる解放感は、

大人が貯めたお金を、浪費する解放感に似ているそうである。

 

他所のトイレをつかって汚れたままにして恥じないとのは、

人からの借金で無駄遣いして、身勝手な解放感を感じて、

返済できなくなって、人に迷惑をかけるのと同じことなのかもしれない。

 

人間も、動物の一種である。

 

ネコには自然にトイレの始末が出来て、人間に赤ちゃんには出来ないというのは

不思議な逆転現象である。

 

人間はトイレを学ばなければできない。

 

人間にとっては、トイレは本能の発露ではなく、文化的な営みなのである。

 

成功した社長が、素手でトイレを磨くのは、

成功しても、自分が動物の一種であるというのを

忘れないための戒めのような気がした。

 

 

ある程度お金ができれば、どうしても心に傲慢さがめばえる。

 

傲慢さは、やがて、自分の力だけで成功したという慢心や、

自分だけが儲かればいいというエゴを育てる温床になる。

 

いくら成功者を装っても、人間はトイレを欠かせない。

 

本能に突き動かされながら、同時に理性をもっているという矛盾こそが、

人間を人間たらしめる厄介な特徴である。

 

素手でトイレを掃除するという理不尽さは、理性の働きを強化する。

 

なぜなら、謙虚になるというのは、理性の働きが不可欠だからだ。

 

ネコが傲慢なのは、理性がないからだ。

 

トイレは、人間が理性の働きを学ぶ教室であり

 

人間は、一生トイレで学び続けるのだ。

 

(終わり)

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