家のあり金をすべて握りしめ、仕事を無断欠勤して、
野宿してホームレス同然だったマルメラードフは、
居酒屋で、偶然にも話の分かりそうな青年と目が合う。
家のあり金をすべて握りしめ、仕事を無断欠勤して、
野宿してホームレス同然だったマルメラードフは、
居酒屋で、偶然にも話の分かりそうな青年と目が合う。
ラーメンや蕎麦、うどんにネギがないととてもさみしい。ネギのかおりというのは、食欲をそそる。しかし、同じネギの香りも、人の口からただよってくれば、不愉快である。飲食と無関係な場所で、ネギの香りを感じることがあれば、それは異臭や刺激臭として扱われる。たとえば、駅の待合室でどこからかぷんとネギの臭いがすれば、イラッとする。でも、その駅の待合室に立ち食いそば屋があれば、ネギの臭いただよっていてもそれほど気にならない。嗅覚というのは、記憶と結びついている。たとえば、私は、頭皮の脂のにおいを嗅ぐと、なんだか落ち着いた気分になる。幼いころ頃、父親のまくら臭いを嗅ぐと、なぜだか安心した。おそらく、当時父親の仕事の帰りが夜遅いので、あまりあう機会がなく、父親のまくらの臭いを嗅ぐと子供心に安心したのかもしれない。なので、いまでも頭皮の脂のツーンとしたにおいには、(いい匂いだとは思わないが、)ケースバイケースで安心感をおぼえる。その人がいるという安心感である。もし堀北真希のつむじから彼女の頭皮の脂の臭いが嗅げるのなら、遠慮なく吸い込みたい。香水やシャンプーの醸すふんわりフェロモンとかどうでもいいので、脂の臭いがツーンとしてほしい。それは興奮するとかではなくて、「ああ、堀北真希が、ここにいるんだ」という実感を味わうために嗅ぎたいのであって、その実感を味わうために、脂の分泌が一番多い頭皮から、嗅ぎたいのである。でも、その臭いが一度しか嗅げないなら、その臭いの記憶はきっとさみしものになる。まるで、その後の一生がネギ抜きラーメンである。また、嫌いな人からいい臭いだという実感は得られない。よく犬は電柱におしっこして、臭いでマーキングする。「ここは俺の縄張りだ」と確認して安心するためだ。誰かの臭いを嗅いで安心するというのは、犬のマーキングに近い。ただ、口からただようネギの臭いから感じるのは、その人がラーメンを食べたという事実だけであって、そこに安心感は乏しい。
(終わり)
『罪と罰』にスヴィドリガイロフという怪人物が登場する。
彼は、前々から目をつけていた、
知的で聡明で飛び切りの美人であるドーニャを
自分のものにするために、彼女の兄であるラスコーリニコフに近づいた。